「じゃあ、神保町からわざわざ? 大変だったでしょう」
「ええ、まあ。大変といえば大変なんですけど。おかげで明日は早めに出勤して、その原稿のゲラ起こしをしないといけないので。ですが、巻田先生には今日中にこれをお渡ししたくて」
原口さんはそう言って、例の重そうな紙袋を私の横へ移動させた。よくよく見れば、そこには大手書店の店名ロゴが印刷されている。……ということは。
「これ、全部本……ですか? 三冊も!」
中身を取り出すと、ハードカバーの本が三冊だった。どれもエッセイ本らしく、著者はバラバラだ。
「はい。先生が書かれるエッセイの参考になりそうなのを、僕が三冊ばかり自腹で選んできました。著者によって文体が違うので、どれが参考になるか分かりませんが……」
わざわざ私のために自腹まで切ってくれたなんて、彼の心遣いには恐れ入る。
「いえ、ありがとうございます! 助かります。エッセイなんて初めてだから、どう書いていいか悩んでたところだったんです」
まるでタイミングを見計らったような担当編集者の機転に、私はもう感謝しかない。時間がある時に全部ザッと読んでみて、私の文体に一番近いのを参考にしよう。
「――ところで、プロット、できたところまで見せて頂いてもいいですか?」
「あっ、はい! ちょっと待ってて下さい。取ってきますから」
私は仕事部屋に急いで戻り、机の上に広げてあったプロットノートをリビングまで持っていく。一応少しは文章らしくまとめてあるけど、それをどう繋げていくかが悩みの種だったのだ。
「これです。まだあんまり進んでないんですけど……」
私は原口さんの隣りに座り、彼にノートを手渡す。
「実はね、このタイトルには私が読者の皆さんに一番伝えたい想いが込もってるんです」「伝えたい想い……ですか」「はい」 私は頷く。でも、そのメッセージを伝えたい相手は読者の皆さんだけじゃない。ここにいる原口さんにも……。でも、それは私の口から直接伝えないと意味がないことだ。 ――彼は引き続き、ノートのページをめくっていた。「一応ね、要点だけは章分けして文章にしてみたんですけど。これを全部繋げて一続きの長い文章にしようと思ったら、どう書いていいか分からなくなって」 編集者の彼なら、何かいいアドバイスをくれるかもしれないと期待したけれど。「そうですね……。先生は読者を感動させられる文章力をお持ちなんですから。あとは組み立て方次第なんじゃないでしょうか」「そんな! 買いかぶりすぎですよ!」 ……原口さん、褒めすぎ! 私は思いっきり謙遜した。だって、自分ではそんなにすごい文才の持ち主だと思っていないんだもん。……嬉しいけど。「でもせっかく参考資料を持ってきて下さったんで、これを頼りに頑張ってみますね」「まだ十分に時間はありますから、じっくりやって下さい。僕も時々、進行具合をお訊ねしますから」「はい」 彼が来るまで、前に進めるか心配だったけれど。少し今後の道筋(みちすじ)が見えてきたような気がする。 ――と、そんな時。 グゥゥ~~ッ………… 小さくて奇妙な音が――。ん? お腹の鳴(な)る音? 私はもう晩ゴハンを済ませてある。ということは……。「……すみません、先生」 恥じ入るように、原口さんが詫びた。さっきの音の正体は、彼のお腹の虫が鳴いた音だったらしい。「もしかして、晩ゴハンまだなんですか?」「はい……。さっきお話しした先生のせいで食べるヒマがなくて。お恥ずかしい」 ――やっぱりこの人、放っておけない! こういうところが私の母性本能をくすぐるんだということを、ご本人は自覚していないらしい。そこがまた私のツボなのだ。「ねえ原口さん、よかったらウチでゴハン食べて行きますか? って言っても、ほとんど私の残りもので申し訳ないんですけど……。あっ、玉子焼き作ります?」 生真面目な原口さんも、さすがに空腹には勝てないみたい。「いいんですか? ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えてごちそうになります」「はい! すぐにできるんで、ダイニン
――それから十分も経たないうちに、ダイニングテーブルの上には原口さんのための夕食メニューの数々が並んだ。 残りもののほうれん草のゴマ和(あ)えと時短(じたん)レシピで作ったサバの味噌煮、玉ねぎ入りのお味噌汁と白いゴハン。そして玉子焼き。私は料理全般好きだけれど、中でも和食系が得意なのだ。さて、彼は喜んで食べてくれるだろうか?「――お待たせしました☆ さ、どうぞ召(め)し上がれ」「いただきます」 彼は手を合わせ、箸を構える。私は向かい側に座り、アイスコーヒーでお付き合い。 彼はどれから箸をつけるのかな……? すると、真っ先に箸が伸びたのは食べるのが本当に楽しみだったらしい玉子焼き。実は、この玉子焼きには隠し味が入っている。彼は気づくだろうか? 箸を使って一口大に切り、口に運ぶと数回咀嚼(そしゃく)して目を瞠った。「……うまい。なんか味にコクがあるな」 お? 気づいたかな?「さて問題です。この玉子焼きの隠し味として私が入れたものは何でしょう? ヒントは原口さんが大好きなものです」「えっ? もしかしてチーズ…
「あれ? あんまり驚いてないみたいですけど。ご存じだったんですか?」「ええ、まあ。琴音先生から聞いてたので。二年前に元カノと別れた、って」「そうですか。西原先生が……ねえ」 原口さんの表情が曇(くも)る。琴音先生の名前が出たから? そして、またもや私の心を掻き乱す、〝二年〟という歳月(さいげつ)。私が作家の道を選び、潤と別れたのも二年前で、琴音先生と原口さん、それぞれの恋が終わったのも二年前。 ……いや、原口さん達は一緒だったかもしれないけれど。どれも二年前にあったことなんて、偶然が重(かさ)なりすぎじゃないの?「……どうかしました? 先生」 頭をもたげていた私を、食事する手を止めた原口さんが心配そうに覗(のぞ)き込んでいる。「……え? ああ、いえ。別に」 何でもない、という風に私は首を振った。 これで、彼がフリーだということは確定したわけだけれど。まだ安心できない。私以外に好きな女性がいたら? ――もう一人の私の「やめときなよ」という囁(ささや)きは無視して、私は彼に訊ねる。「じゃあ、好きな女性とか気になってる女性は? 一人くらいいるんでしょ?」 ……どうか琴音先生じゃありませんようにと、祈るような想いで答えを待った。「一人だけいますよ。年下なんですけど、責任感が強くてまっすぐで、仕事にポリシー持ってる女性が」「え…………?」 思わず彼を見つめてしまう。――それって私? なんて自惚(うぬぼ)れてるのかな? でも〝年下〟ってことは、確実に琴音先生(あの人)じゃないよね。「でも僕、不器用なもんで。素直じゃないっていうか、いつも素っ気ない態度とかばかり取ってしまうんで、嫌われてたらどうしようかと……」 やっぱり私だよね? だったら大丈夫! 私はあなたのこと嫌ったりしないから。 私は自分の心に一つの区切りをつけようと思った。今のぬるま湯に浸(つか)っているような関係は心地いいけど、いつまでもこのままというわけにはいかない。 でも、それは今じゃない。「原口さん」「……はい?」 私は意を決して、彼に言った。「今回の原稿が上がったら、あなたに伝えたいことがあります」 これじゃ、暗(あん)に告白することを仄(ほの)めかしているようなものだけれど。原口さんは不思議そうな顔もせずに「分かりました」と頷いただけだった。私は目を瞠った。
「――ごちそうさまでした」 彼は満足そうに箸を置いた。出した料理は全てキレイに平らげられている。「いやー、全部うまかったです。ありがとうございました」「いえいえ! ね、原口さん。よかったら、これからもちょくちょくウチにゴハン食べに来ませんか? こんな簡単なものでよかったら、私いつでも作りますから」 ……はっ!? 私ってば何を彼女気取りで! でも原口さんは、特に意に介した様子もなくて。「……いいんですか?」「ええ。一人分増えたって手間は同じですから」 一人で食べるゴハンより、誰かと一緒に食べるゴハンの方が絶対美味しい。――この間実家に帰ってみてそう思った。きっと原口さんも同じはずだから。「お気遣いありがとうございます」 低頭(ていとう)する原口さんに頷いてみせてから、私は彼の食器を片付け始めた。「――じゃ、僕はそろそろ失礼します。長居してしまってすみません」「いえ。引き留めたの、私ですから」 原口さんはリビングからカバンを取ってくると、玄関で私に言った。「それじゃ先生、執筆頑張って下さい」「はい! ……気をつけて帰って下さいね」 原口さんが今日訪ねてきてくれるまで、本当に私にエッセイなんて書けるのか不安だったけれど。今なら書けそうな気がしてきた。
* * * * ――それから数日後。「ふわぁ~~あ……」 バイト中、売り場での作業をしながら大欠伸をした私に、由佳ちゃんが心配そうに声をかけてきた。「奈美ちゃん、眠そうだね? どしたの?」「あー……うん。今新作の原稿書いててね。昨夜も遅くまでやってたもんだから」 元来、書き始めたら筆が止まらなくなる私は、今回の仕事でもそういう状態になっているのだ。いわゆる〝ライターズ・ハイ〟というべきか(……あれ? こんな言葉あったっけ?)。 今回は特別な仕事だから、なおのことそうだった。「遅くまでって何時ごろまで? 睡眠時間足りてないんじゃない?」「うーん……、十二時半ごろまでかな。でも睡眠は足りてるし、もう慣れてるから大丈夫だよ。由佳ちゃん、心配ありがとね」 手書き原稿派の私は、ただでさえ遅筆だ。そのうえ、言葉の一つ一つを吟味(ぎんみ)して書いているので、遅い時には深夜の二時ごろまでかかることもあるのだ。「大丈夫ならいいんだけどさ。っていうか新作って? こないだ出て、重版かかったばっかじゃなかったっけ?」 由佳ちゃんは一度首を傾げてから、「あ」と声を上げた。「もしかしてアレ? こないだ取材受けたエッセイだっけ?」「そうそう。それ」「ああ~、そういうことね。あたしも絶対予約するよ!」 由佳ちゃんって私の根っからのファンなんだな。私の新刊が出るたびに、毎回こうして売り上げに貢献(こうけん)してくれているから。もちろんそれだけじゃなく、素直な感想もくれて、それが作家としてすごく励みにもなっている。 私はいつも、こんなファンの人達に支えられて作家活動を続けられているんだなあと、感謝してもしきれない。「――すいませーん。本の予約したいんですけど」 若い女性のお客様に声をかけられ、私は補充作業を中断した。「はい、少々お待ちくださいませ。――由佳ちゃん、ここお願い」「うん、オッケー!」 彼女に売り場を任せ、パソコンのあるレジ横カウンターへ。「お客様、こちらの予約注文票にご記入をお願いします」 私はカウンターの下の引き出しから伝票を取り出して開き、ボールペンをお客様に差し出した。こうして記入された書籍のタイトルやお客様のお名前・連絡先などを、後でパソコンに入力していくのだ。
「――はい、書けた。これでいいの?」「ありがとうございます。――はい、大丈夫です。では、こちらがお控えです」 私は控えをお客様にお渡しした。「入荷しましたら、ご連絡差し上げます。ご注文承(うけたまわ)りました」 お客様はそのまま、雑誌の売り場へと向かった。「――店長、ご注文受け付けました。今からパソコンに入力します」 パソコンに向かった私は、レジにいる清塚店長に声をかけた。「了解。悪いねえ、巻田さん。頼むよ」「はい」 ほんの二ヶ月くらい前の私なら、パソコン作業はあまりやりたがらなかった。 でも、今は違う。今の私は作家としての仕事にも、書店員としての仕事にも前向きに取り組んでいる。私を変えてくれたのは、原口さんへの恋心だと間違いなく思う。「あっ! 奈美ちゃん、いいよ。あたしがやるから」「ううん、いいの。私できるから、任せて」 由佳ちゃんがヘルプを申し出てくれたけれど、私は断った。気持ちは嬉しいけれど、注文を受けたのは私なんだから、責任もって入力まで終わらせないと! もうだいぶ慣れてきた手つきで、私は入力作業を済ませた。その内容にミスがないか確認した後、予約受付票を専用バインダーに挟んで手続きは完了。 店内の時計に目を遣ると、もう夕方四時。ちょうど退勤時間だった。「店長、お疲れさまでした。私と由佳ちゃんはこれで失礼します」「ああ、お疲れ
「――で? 恋の進展状況はどう?」 二人でアイスラテをすすりながらのガールズトーク。由佳ちゃんが真っ先に切り込んできた。「えーっと、とりあえず『告白します宣言』はした」「……は? えっ、どういうこと?」 由佳ちゃんの頭にはハテナが飛び交っているらしい。そこで私は、数日前の夜に原口さんが訪ねてきた時のことを話した。「――ってワケなんだ」「へえ……。ねえ奈美ちゃん、それって彼も奈美ちゃんに気があるってことなんじゃないの?」「……やっぱり、そう思う?」 私一人ではただの自惚れだと思っていたけど、由佳ちゃんも同じように感じたってことは……。「うん! これは脈アリとあたしは見た」「そっか。そうなんだ……」 私の自惚れなんかじゃない。原口さんも私のこと……。美加だけじゃなく、由佳ちゃんにもそう言ってもらえたら、本当に大丈夫な気がしてきた。「ちなみに、原口さんって今フリーなの?」「うん。少し前に親しくしてる女性作家さんから聞いて、本人に確かめたら間違いないって。……あ」「……ん? どしたのよ?」 私はそこでふと思い出した。職場まで取材に行った時に、美加にこの話をしたら何かが引っかかっているように見えたのを。「あ……、えっと。実はね――」
「――そういえばさ、奈美ちゃんって責任感も自立心も強いけど、時々誰かに甘えたいとか寄り掛かりたいとか思わないの?」「う~ん……、どうなんだろ。私、昔っから甘え下手(ベタ)なんだよねえ。特に男の人には」 〝自立心が強い〟とは、原口さんにも言われた。彼は褒め言葉として言ったんだと思うけれど。裏を返せば、それは〝甘え下手〟という私の欠点でもある。女としては正直、あまり喜べない。「男の人ってやっぱり、女性から〝甘えられたい〟〝寄り掛かられたい〟って思うものなのかな?」「そうなんじゃない? 原口さんはどうか分かんないけど、奈美ちゃんに寄り掛かられたいって思ってる人はごく身近にもいるよ」「ごく身近に?」 誰だろう? 思い浮かぶのは〈きよづか書店〉の仲間くらいだけど――。「まさか店長……とか?」「そんなワケないでしょ? 店長、奥さんいるじゃん」「あー、そっか」 清塚店長の奥さん・美(み)由(ゆ)紀(き)さんはたまにお店の仕事を手伝いにきている。店長とは本当にラブラブで、まさに〝おしどり夫婦〟という感じだ。「じゃあ……誰?」 首を傾げてラテをすすった私に、由佳ちゃんがボソッと言う。「今西クンだよ」「……え? ウソ」 にわかには信じ難(がた)く、私は由佳ちゃんの顔を見たけれど。彼女の表情は真剣そのものだった。「それ、ホントなの?」「うん、マジ。……あたしもね、本人から相談受けるまでは知らなかったんだけど」 そういえば、私がバイト中にピンチに陥った時、真っ先に飛んできてくれたのも彼だった。「今西クンは、奈美ちゃんに好きな人がいること知らないから。『何とか巻田先パイとの仲取り持ってもらえませんか!?』って言われてあたし困っちゃったよー」「……そうなんだ」 由佳ちゃんとしては、私が原口さんとうまくいくことを望んでるんだろう。そりゃ困るよね……。「私はどうしたらいいと思う? 今西クンにホントのこと話すべきかな?」「そうだね……。でも、奈美ちゃんは前に進もうとして勇気出したんだもん。告白の結果次第で考えたらいいんじゃないかな」 例の「告白します宣言」のことだ。あれは私としてはかなり勇気の要る言動だった。「うまくいくって信じてるけど。まずはその〝前に進む勇気〟を出せたことを評価したいな、あたしは」「〝評価〟って何さ!? ……でもありがと」
「バレました? 実はそうなんです。僕ももっと早く先生にお話しするつもりだったんですけど、先生が喜ばれるかどうか心配で。僕よりも映画のプロの口から伝えていただいた方が説得力があるかな……と」「はあ、なるほど」 私も自分が書いた作品の出来(でき)には自信があるけれど、「映画化するに値(あたい)するかどうか」の判断は難しい。そこはやっぱり、プロが判断して然(しか)るべきだと思うのだ。「僕は先生がお書きになった原作の小説を読んで、『この作品をぜひ映像化したい!』と強く思いました。それも、アニメーションではなく、生身(なまみ)の俳優が動く実写の映画にしたい、と。それくらいに素晴らしい小説です」「いえいえ、そんな……。ありがとうございます」 私は照れてしまって、それだけしか言えなかった。自分の書いた小説をここまで熱を込めて褒めてもらえるなんて、なんだかちょっとくすぐったい気持ちになる。それも、初対面の男性からなんて……。「――あの、近石さん。メガホンは誰がとられるんですか?」 どうせ撮ってもらうなら、この作品によりよい解釈をしてくれる監督さんにお願いしたい。「監督は、柴崎(しばさき)新太(あらた)監督にお願いしました。えー……、スタッフリストは……あった! こちらです」 近石さんが企画書をめくり、スタッフリストのページを開いて見せて下さった。「柴崎監督って、〝恋愛映画のカリスマ〟って呼ばれてる、あの柴崎監督ですか!?」 私が驚くのもムリはない。私と原口さんは数日前に、私の部屋で彼がメガホンをとった映画のDVDを観たばかりだったのだから。「わ……、ホントだ。すごく嬉しいです! こんなスゴい監督さんに撮って頂けるなんて!」「実は、主役の男女の配役ももう決まってまして。あの二人を演じてもらうなら、彼らしかいないと僕が思う演者(えんじゃ)さんをキャスティングさせて頂きました」 近石プロデューサーはそう言って、今度は出演者のリストのページを開いた。「えっ? ウソ……」 そこに載っているキャストの名前を見て、私は思わず声に出して呟いていた。「……あれ? 先生、お気に召しませんか?」「いえ、その逆です。『演じてもらうなら、この人たちがいいな』って私が想像してた通りの人達だったんで、ビックリしちゃって。まさにイメージにピッタリのキャスティングです」 こん
「いえ、僕もつい今しがた来たところですから」「あ……、そうでしたか」 TVでもよく見かけるイケメンさんに爽やかにそう返され、私はすっかり拍子抜け。――彼が敏腕(びんわん)映画プロデューサー・近石祐司さんだ。「先生、とりあえず冷たいお茶でも飲んで、落ち着いて下さい」「……ありがとうございます」 原口さんが気を利かせて、まだ口をつけていなかったらしい彼自身のグラスを私に差し出す。……私は別に、彼が口をつけていても問題なかったのだけれど。 ……それはさておき。私がソファーに腰を下ろし、お茶を飲んだところで、原口さんがお客様に私のことを紹介してくれた。「――近石さん。紹介が遅れました。こちらの女性が『君に降る雪』の原作者の、巻田ナミ先生です。――巻田先生、こちらはお電話でもお話しした、映画プロデューサーの近石祐司さんです」「巻田先生、初めまして。近石です」「初めまして。巻田ナミです。近石さんのお姿は、TVや雑誌でよく拝見してます。お会いできて光栄です」 私は近石さんから名刺を頂いた。私の名刺はない。原口さんはもう既に、彼と名刺交換を済ませているようだった。「――ところで原口さん、さっき『君に降る雪』って言ってましたよね? あの小説を映画化してもらえるってことですか?」 その問いに答えたのは、原口さんではなく近石さんの方だった。「はい、その通りです。
「――どうでもいいけどさ、奈美ちゃん。早くお弁当(それ)食べちゃわないと、お昼休憩終わっちゃうよ?」「えっ? ……ああっ!?」 壁の時計を見たら、十二時五十分になっている。ここの従業員のお昼休憩は三十分と決まっているので、残りの休憩時間はあと十分くらいしかない! 慌ててお弁当をかっこみ始めた私に、由佳ちゃんがおっとりと言った。「奈美ちゃん、……喉つまらせないようにね」 * * * * ――その日の終業後。「店長、お疲れさまでした! 由佳ちゃん、私急ぐから! お先にっ!」 清塚店長と由佳ちゃんに退勤の挨拶をした私は、ダッシュで最寄りの代々木駅に向かった。 原口さんは、近石プロデューサーが何時ごろにパルフェ文庫の編集部に来られるのか言ってくれなかった。電車に飛び乗ると、こっそりスマホで時刻を確かめる。――午後四時半。近石さんはもう編集部に来られて、原口さんと一緒に私を待ってくれているんだろうか? 私は彼に、LINEでメッセージを送信した。『原口さん、お疲れさまです。今電車の中です。近石さんはもういらっしゃってますか?』『いえ、まだです。でも、もうじきお見えになる頃だと思います』 ……もうじき、か。神保町まではまだ十分ほどかかる。先方さんには少し待って頂くことになりそうだ。私が編集部に着くまでの間、原口さんに応対をお願いしようと思っていると。 ……ピロリロリン ♪『ナミ先生がこちらに着くまで、僕が近石さんの応対をします。だから安心して、気をつけて来て下さい』 彼の方から、応対を申し出てくれた。『ありがとう。実は私からお願いするつもりでした(笑)』 以心(いしん)伝心(でんしん)というか何というか。こういう時に気持ちが通じ合うって、なんかいいな。カップルっぽい。……って、カップルか。 ――JR山手線(やまのてせん)の黄緑色の電車はニヤニヤする私を乗せて、神保町に向かってガタンゴトンと走っていた。 * * * * ――それから約十五分後。 ……ピンポン ♪ 私は洛陽社ビルのエレベーターを八階で降り、猛ダッシュでガーネット文庫の編集部を突っ切っていった。「おっ……、遅くなっちゃってすみません!」 奥の応接スペースにはすでに原口さんと、三十代半ばくらいの短い茶髪の爽やかな男性が座っている。私は息を切らしながら、まずはお待た
「どしたの? 奈美ちゃん」「うん……。彼からメッセージが来てるの。えーっとねえ……、『お疲れさまです。このメッセージを見たら、折り返し連絡下さい』だって」 LINEアプリのトーク画面に表示されている文面はこれだけで、肝心(かんじん)の用件は何も書かれていない。「何かあったのかなあ? 返信してみたら? 『どんな用件ですか?』って」「返信より、電話してみるよ。その方が早いし」 私は履歴から彼のスマホの番号をタップし、スマホを耳に当てた。『――はい、原口です』「巻田です。なんかさっき、メッセージもらったみたいなんで折り返し電話したんですけど。たった今気がついて」『ああ、そうなんですか。――今日はお仕事ですか?』「はい。今はお昼休憩中なんですけど。――何かあったんですか?」『はい。えーっと、映画プロデューサーの近石(ちかいし)さんという方から、「巻田先生にお会いしたい」ってお電話を頂いて。今日の夕方に編集部でお会いすることになったんで、連絡したんです』「映画プロデューサーの近石さん……、あっ! もしかして、近石祐司(
――数日後。今日のバイトは久々に由佳ちゃんと一緒のシフトになった。 新作の原稿も順調に進んでいるし、原口さんとの関係も良好。ここ最近の私は公私(こうし)共(とも)に充実している感じだ。「――客足も落ち着いてきたね。二人とも、お昼休憩に行っておいで」 正午を三十分ほど過ぎた頃、清塚店長が私達アルバイト組に休憩をとるように言ってくれた。「「はい。行ってきます」」 休憩室の机の上にお弁当を広げ、由佳ちゃんとガールズトークをしながらのランチ。この日も当然、そうなるはずだった。……途中までは。「――そういえば、最近どうなの? 五つ上の編集者さんの彼氏とは」 由佳ちゃんは最近、私の恋愛バナシにご執心(しゅうしん)みたいだ。「うん、順調だよ。――由佳ちゃんの方は?」 私はお弁当箱の中の玉子焼きをお箸でつまみながら答え、今度は私から由佳ちゃんに水を向けた。「うん……。彼とはねえ、最近連絡取ってないの」「えっ? ケンカでもしたの?」 少し前まで幸せそうだったのに。予想外の答えに私は目を丸くした。「ううん、そうじゃないんだけどね。彼、最近忙しいみたいで……」 由佳ちゃんの彼氏は中学校の教師で、私の予想では多分三年生を受け持っている。「そっか……。でも、中学校の先生だったら今ごろはきっと、ホントに忙しいんだろうね。文化祭の準備とかテストとかで」 私はさり気なくフォローを入れる。それに、三年生の担任だったりしたらきっと、生徒の進路の相談に乗ったりもしているんだろうから、さらに忙しいだろうし。「少し時間が空いたら、彼からまた連絡くれると思うよ。だから、彼のこと信じて待つしかないんじゃない?」「……そうだね。あたし、彼のこと信じる」 さっきまでちょっと元気のなかった由佳ちゃんは、食べかけでやめていたコンビニのエビマヨのおにぎりをまたモグモグし始めた。「――にしても、奈美ちゃんはいいなあ。仕事でも私生活(プライベート)でも、大好きな人と一緒なんでしょ? 『離れたらどうしよう?』なんて心配はなさそうだし」 冷たい緑茶でおにぎりを飲み下した由佳ちゃんが、羨ましそうに私に言った。「うん……、まあね。逆に言えば、プライバシーもへったくれもないってことになるんだけど。別に私は困んないし」 むしろ四六時中(しろくじちゅう)彼と一緒にいられて幸せだから、私はそ
* * * * ――翌朝、原口さんはバイトに出勤する私に合わせてわざわざ早く起きてくれたので、一緒に朝ゴハンを食べた。今日のメニューは白いゴハンに焼き鮭(ざけ)、キュウリとナスの浅漬け、そしてきのことカボチャのお味噌汁。秋が旬の食材をふんだんに使ったメニューだ。 たまには洋食の朝ゴハンにしようかとも思うのだけれど、原口さんは和の朝食がお好みらしい。「――そういえば、ナミ先生って和食以外もよく作るんですか?」 ゴハンをお代わりしながら、彼が訊いた。……あ。そういえば彼がウチで食べる料理ってほとんど和食だ。洋食系のメニューって食べてもらったことあったっけ?「うん、作りますよ。中華とかカレーとかも。でも、さすがにハヤシライスは作ったことないなあ」 昨日のデートで、彼と一緒にカフェで食べたハヤシライスはおいしかった。……でも、自分で「作ってみたい」とまでは思わない。私は創作の面では結構攻めるタイプだと思うけれど、どうも他の面では守りに徹(てっ)するタイプみたいだ。 そういえば恋愛でもそうだった。原口さんのことが好きだと気づいた時だって、自分からはグイグイ行かなかった……と思うし。「――僕、ナミ先生が作ってくれる和食大好きなんですけど。たまには洋食系のメニューも食べてみたいなあ……なんて。……すみませ
* * * * ――結局、彼はやっぱり泊っていくことになった。 洗い物を済ませてから二人で交代に入浴し、寝室で甘~~い時間を過ごしたら、私は無性に書きたい衝動(しょうどう)にかきたてられた。「――ゴメンなさい、原口さん。私、これからちょっと仕事したいんですけど。机の灯りつけてても寝られますか?」 私が起き上がると、彼は「仕事って、執筆ですか?」と訊き返してくる。「そうです。眩しいようだったら、ダイニングで書きますけど」「いえ、僕のことはお気になさらず。……ただ、明日出勤でしょ? あんまり遅くまでやらないようにして下さいね」「うん、ありがとうございます。キリのいいところまでやったら、適当に寝ます。だから気にせず、先に寝てて下さい」 私はベッドから抜け出して、部屋着の長袖Tシャツの上からパーカーを羽織り、机に向かった。書きかけの原稿用紙を机の上に広げ、シャープペンシルを握る。 ノートパソコンは、相変わらずネットでしか稼働(かどう)していない。タイピングの練習は、時間が空いた時だけやっている。でも、パソコンで執筆する気にはやっぱりなれない。 原稿を書きながら、数時間前に観た映画のラブシーンとついさっきまでの彼との濃密(のうみつ)な時間を思い出しては、一人で赤面していた。私が書いている恋愛小説は濃厚(のうこう)なラブシーンが登場するようなものじゃなく、主にピュアな恋愛を描いているものがほとんどなのだけれど。 私の恋は、小説やTVドラマや歌の世界を地(じ)でいっている気がする。 潤のことも、もちろん本気で好きだった。だから、「小説家なんかやめろ」って言われてすごく傷付いたんだと思う。「どうして好きな人に応援してもらえないの?」って。 でも、原口さん相手ほどは燃えなかったなあ。こんなにどっぷり好きになった相手は、多分彼が初めてだ。そして、ここまで愛されているのも。 だって彼は、私のことを丸ごと愛してくれているから。私のダメなところも全部認めてくれて、決して貶さないし。……こんなに出来た彼氏は他にいないと思う。 ――集中してシャーペンを走らせ、原稿用紙十五枚を一気に書き上げると、時刻は夜中の十二時過ぎ。いつの間にか日付が変わっていた。「ん~~っ、疲れたあ! そろそろ寝よ……」 私はシャーペンを置き、思いっきり伸びをした。ふと、後ろのベッド
「――さて、と。まだ時間も早いですけど、DVDでも観ます?」 私はソファーから立ち上がると、ミモレ丈(たけ)のデニムスカートの裾を揺らしてTVラックの所まで行き、彼に訊ねる。 今日は映画を観てきたけれど、この部屋の中での時間の潰し方は限られる。TVを観るか、DVDを観るか、仕事するか。それとも…………。「いいですけど。ちなみに、どんなジャンルですか?」「ワンパターンで申し訳ないんですけど、恋愛映画……。洋画と邦画、どっちもありますけど」 これでも恋愛小説家である。他の作家さんの恋愛小説だけでなく、時にはコミックやTVドラマ・映画などを作品の参考にすることもあるのだ。そういう意味で、恋愛映画のDVDは資料としてこの部屋には豊富に揃(そろ)っている。「じゃあ……、邦画の方で」「了解(ラジャー)☆」 私が選んだのは、〝恋愛映画のカリスマ〟と名高い若手映画監督がメガホンをとった映画。今日観て来た映画とは違う、ドラマチックな演出をすることで有名な人の作品だ。 ――でも見始めてから、この作品を選んだことを後悔した。「「わ…………」」 途中で際(きわ)どいラブシーンが流れて、何となく気まずい空気になったのは言うまでもない。 あまりにも生々しすぎるラブシーンを直視できず、TV画面から視線を逸らしてチラッと隣りを見遣れば、原口さんは瞬(まばた)きひとつせずに画面に釘付けになっていた。 ……目、大丈夫かな? ドライアイにならない? 私は彼の顔の前に手をかざして上下に動かしてみる。「お~い、起きてますかぁ?」「…………ぅわっ!? ビックリした!」 ハッと我に返った彼のガチのビックリ顔がおかしくて、私は思わず吹き出した。「ハハハ……っ! めっちゃ見入ってましたねー」「スミマセン」 お家デート中に彼女の存在そっちのけで映画に見入っちゃうなんて、なんて彼氏だ。……まあでも、面白いものが見られたからよしとしよう。「――あ、終わった。ちょっと刺激強すぎたかな……」 映画は二時間足らずで終わった。プレイヤーから出したディスクをケースに戻し、次に観る時はもう少し刺激の少ない映画にしようと思った。「お風呂のお湯、入れてこようっと。――先に入りますか?」 この調子だと、今日も彼はこの部屋に泊まっていくことになりそうなので、私はバスルームに向かいがてら彼に訊ね
「原口さんだって、もうちょっと広い部屋の方が落ち着けるでしょ? ベッドだって狭いし」「だったら、ベッドだけシングルからセミダブルに変えたらいいんじゃないですか?」 彼の提案は身もフタもない。せっかく「あなたの部屋の近くに引っ越したい」って言うつもりだったのに。「ここの寝室は狭いから、セミは置けないんです。だからどっちみち引っ越すことになるの。……まあ、狭いベッドの方が、ベッタリくっついていられるから私もいいんですけど」「そっ……、そういう意味で言ったんじゃ………」 ちょっと意味深な視線を送ると、彼は真っ赤になって慌てた。私より恋愛慣れしているわりには、結構ピュアだったりするのだ。「冗談ですって。でも、引っ越すなら赤坂の方の物件がいいな。原口さんのお部屋の近く」「え……」「その時は、お手伝いよろしく☆」「…………はい」 私の方が年下なのに、彼は腰が低いというか、立場が弱いというか……。私に何か頼まれると、「イヤです」とは言いにくいらしい。話し方だって、未だに敬語が抜けないし。 しばらく話し込んでいたら、マグカップに入っていたミルクティーはもうほとんど飲み終えつつあった。私は彼の肩にそっと頭をもたげる。「――あ、そういえば美加が、『いつ結婚式の予約入れてくれるの?』って言ってたんですけど」「美加さんって……、こないだ取材させて頂いたウェディングプランナーのお友達ですか?」